※三条の名前は『皇女・三条華子―武田信玄夫人』(著・高野賢彦)
に習って「華子」としてあります。

今宵の雨は、降り止む気配もございませぬな。
このような晩には、つい昔語りなどをしてみたくなるものでございます。
そう、あの日も雨が降ってございました。
何年も、何十年も経とうと忘れようのない雨の晩―――。
某があの方と過ごした、春の晩でございます。

その日、某は躑躅ヶ崎の館にて書状をしたためておりました。
御屋形様は前日より諏訪に赴かれ、五日ほどは諏訪にて過ごすと伺っておりましたが
せっかくならば少しでも早く仕上げ、万全を期したいもの。
ついつい仕事に熱が入り、気付くと外はすっかり闇に覆われてございます。
しかも運の悪いことに、雨が降り始めておりました。

川の氾濫を心配するほどではなくても、濡れて帰るには少々強すぎる雨。
帰るのも億劫で、某は城に泊まることを決めました。
なにぶん幼少より親しんだ躑躅ヶ崎城。
奥近習どもに尋ねずとも、夜を明かす場所くらいは簡単に見つかります。
某は奥の小部屋に向かいました。
その部屋は少々手狭なものの、中庭の白梅が美しい気に入りの場所でございます。
さて、と思い襖を開けると―――そこにはあの方がいらっしゃいました。

あの方は某を見て、驚いた顔をなさりました。
「駒井様―――」
なんという偶然でしょうか。
某の心は、どくんと音を立てて跳ね上がりました。

「御方様。このような夜更けに起きていては、お風邪を召されまする。」
震える声を隠し諌めますると、あの方は柔らかく微笑まれました。
「ほんに嫌な雨じゃの。諏訪にも、雨は降っておりますじゃろうか。」
雨が降れば、御屋形様のご帰還も遅くなる―――。
普段は悋気を口にすることなき方だとはいえ、
御屋形様が諏訪の御寮人様の下に長く留まることが面白いわけはござりますまい。
あの方のいつになく昏い眼差しに、某の心はぐらりと揺れました。
そして気付いたときには、某はあの方を背中から抱きしめていたのです。

あの方に初めてお会いしたのは、京からお輿入れされた日のこと。
その時感じた胸の高鳴りは、未だに忘れられません。
甲斐のおなごとは全く違う言葉、仕草、そして気品のありように
公家の姫様とはかようなものであるのか、
おなごとはこのようにたおやかなものなのかと思い、思わず言葉を失いました。

その折より近習として武田晴信様にお仕えしていた某は
あの方の身の回りのお世話や、甲斐のしきたりをお伝えする役目を負ってございました。
いかにも武者らしい武田の家臣と違い、齢も近く話し易かったのでしょうか。
「あれは何」「これは何」と無邪気に某を頼って下さったものです。
そのうちに、某は姫様に心奪われてしまったのです。

他人と争ってまで何かを手に入れたいと思ったことなどなかった某が
初めて我が物にしたいとの思いに駆られたお方。
それが我が主君の妻となるべく甲斐に参られた姫君とは、なんという皮肉でしょう。
何人にも悟られてはならぬ、と心の奥に蓋をした恋心なれど―――いや、さればこそ
自身が妻を娶り、子が産まれても朽ちてゆく気配はございませんでした。

たまに城中でお見かけするだけで、どれ程心が高鳴るか。
その黒目がちな瞳で見つめられるだけで、どれ程幸せか。
某が幾度頭の中であの方を抱きしめ、その温もりを味わってきたか。
誰にも気取られぬよう隠し続ける己の醜さは、勘助の由布様びいきより性質が悪いものでしょう。

初めて抱きしめたあの方の身体は、雨のためか冷え切っておられました。
どんなにかあの方は、驚かれていたことでしょう。
某の腕を逃れようともされず、ただただ身を硬くしておいででした。
「駒井様?」
諌めるように名を呼ばれても、すでに溢れてしまった思いはどうにもなりません。
腕にいっそう力を込め、とうとう思いの丈を口にいたしました。
「ずっと、こうしたいと願っておりました。お慕い申し上げておりました。」
あの方はお答えになりません。
「秘めておくつもりにございましたが。御方様のお姿を見て辛抱ならなくなりました。」
この声の震えは、もはや隠し通せるものではなくなっておりました。
「――雨のせい、にござりますやろか。」
あの方の細い指が、某の腕に触れます。
その指で腕をそっと解かれると、立ち上がって襖を閉められました。
雨の降りしきる音が、こころもち大きくなったような気がいたします。
あの方は某を振り向かれ、菩薩のようにふわりと微笑まれました。
「政武様。」
あれほど柔らかく、許すような響きで名を呼ばれたことは、後にも先にもございません。
某は、ずっと呼びたいと願ってきたあの方の名を口にしました。
「華子様―――華子様!」
万感の思いを込めて、あの方―――華子様を抱きしめ唇を奪いました。

脱ぎ散らかされた着物が、畳の上に綾をなします。
長い間夢にまで見た方の身体は、何人もお子を産まれたとは思えぬほど
白く美しく、柔らかくていらっしゃいました。
そこかしこに触れ、唇を落とし、舌でなぞり、名を呼び、思いの丈を口にし―――。
主君の妻を抱くなどと、打ち首になってもおかしくない行為だと申しますのに
某は強い喜びと、この時がいつかは終わってしまう切なさに満たされておりました。

華子様を貫き、ひとつになったときもその思いが消えることはなく。
快楽に身をよじり、か細い喘ぎを漏らす華子様を見つめながらこう呟きました。
「このまま貴女と溶け去ってしまいたい。」
―――きっと某は泣きそうな顔をしていたことでしょう。
「ええ、わたくしも。」
溶け去ることなどできもしないくせに、手酷い裏切りの最中であるというのに。
華子様のその言葉は、まるで真実のように某の心を貫きました。

たった一度きりの、春の幻のような情事。
切なく狂おしく張り詰め、安らぎや満ち足りた幸せとも無縁の
それでいていつまでも続けばと思ってしまうような時間。
絶頂に至ってなお、某はいつまでも華子様を抱きしめておりました。
そして、それきり。

あのことを知るものは、某とあの方の他には誰にもおりません。
あの方は華子様ではなく元の御方様となり、妻として母としての勤めを見事に果たされ
某は内政に、戦にと側近として御屋形様にお仕えして参りました。

あのような思いでおなごを抱いたのは初めてのこと。そして、あの夜より先にもございません。
恋は人を鬼に落とすなどと申しますが、あの夜のせいで地獄に落ちるのであれば
それはそれで本望だ、と某は今でも思っております。

その後武田に訪れた命運につきましては、誰もが存じておられることでしょう。
皮肉で無慈悲な運命に翻弄され、それでいて優しく慈悲深かったあの方。
今も偲ばれる某の華子様は―――昨年、失意の果てに身罷られました。
決して幸せとは呼べぬであろう晩年を迎えられたあの方は
某とのあの出来事をどう思っていらしたのか、これでもう聞くことはできますまい。

由布様への悋気ゆえ、ご自身を傷付ける気になったのか。
雨の淋しさゆえ、誰でも良いから縋りたくなったのか。
某の必死の告白に情けをかけて下さったのか。
あるいは―――都合の良い妄想ではございますが、あるいはあの方も
某を、ほんの少しでも慕って下さっていたというのか。

すべては過ぎ去った、昔の出来事でございます。
されどこのような、雨のしとしと降りしきる淋しい晩には
愛しい愛しいあの方のことが思い出され、心が締め付けられてならぬのです。

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