酒器の割れる音と女の悲鳴が甲高く躑躅ヶ崎館の奥向きの一室に響いた。
倒れた瓶子から白濁した酒が流れ、赤い華美な打掛の裾を汚す。
袴をつけずにゆったりと着流した艶のある灰色の小袖の少し乱れた裾の近くには、若い女の恐怖で歪んだ顔があり、
わけがわからぬままに平伏して許しを乞うその女を、甲斐の国主である武田信虎が見下ろしていた。
燃え上がった彼の激情は一瞬で室内に惨状を作ったが、冷めるのもまた一瞬だった。
信虎は今は冷ややかな目をしている。
ほんの少し前まで信虎は、この若い側室の襟元に手を入れて柔らかい乳房で暖を取りながら上機嫌で酒を飲んでいた。
女は美しく酒も美味かったが、唐突な怒気が彼に盃を放り投げさせ、女の小袖の襟元から乱暴に手を引抜いて細い体を突き飛ばさしめた。
しかし何に腹が立ったのかもう思い出せない。
どうせ些細なことだったのだろう。
泣くだけで手ごたえのない女を一瞥した後、信虎は女にも酒にも興味を失い、部屋を出た。
躑躅ヶ崎の館の廊下には、この冬最後の満月の光が細い格子の隙間から幾筋も射し込み、信虎の行く手を照らしている。
不動堂の近くを通りかかった時、かすかな笑い声が信虎の耳に入った。
これから会いに行こうとしている妻が発する、聞き慣れぬ響き──。
信虎はふらりと体を揺らすと、その方向へ足を向けた。
気配を殺して中を覗き込むと、不動明王の前に彼の正室の大井夫人と、嫡男の勝千代が歓談していた。
妻の膝には経文が、息子の手には一枝の白梅がある。
躑躅ヶ崎館の庭先にはまだ雪が残り、梅の蕾みはまだ固い。
大井夫人は、息子がもたらした春の兆しを眩しそうに眺めていた。
「鮎沢はもう梅が咲いておるのじゃな」
鮎沢には勝千代の学問の師がいる長禅寺がある。
「いえ、鮎沢でも咲いていたのはこの枝のみでござる。危うき崖近くの梢でござったが、母上にお目にかけたくて板垣を梅の木へ登らせました」
「そなた、板垣ほどの者にさような真似をさせたのですか」
勝千代の傳役板垣信方は武田家の重鎮中の重鎮である。
たかが梅一枝のため、大事な家臣に危うい行いをさせたことは、母としてはたしなめねばならぬところだ。
しかし板垣が梅の木へ取り付いている姿を想像すると、大井夫人は説教用の表情を作ることができなかった。
大井夫人は吹きだす様に笑った。
「板垣が花盗人をするのは、なかなかに面白き眺めでござりましたぞ」
それをよいことに勝千代はすましている。
「ちょうど今宵は月夜。梅を楽しむにもよい夜でござる」
今年十歳になる勝千代は、歳よりもずっと大人びた口調で言うと大井夫人に梅の枝を手渡した。
「月の輝きは晴れたる雪の如く、梅花は照る星に似たり──か」
大井夫人が菅原道真の有名な詩をそらんじて見せると、勝千代は我が意を得たりというように頷いた。
「菅公がその詩を詠まれたは、それがしとそう変わらぬお歳であったとか。あやかりとうございまするな」
「頼もしいこと──学問に励んでおるようじゃの」
「菅公に比べれば恥ずかしき限りでござりまするが、近頃は殊に孫子が面白うてなりませぬ。百戦百勝は善の善なるものに非ず──ひとくだりごとに眼を開かされる心地でござる。母上もお読みになられるとよい」
「そなた、母に兵法を学ばせて、いかがする気じゃ」
孫子への傾倒の程が窺える熱っぽい息子の語りように大井夫人はまた笑った。
信虎は妻の微笑にじっと目を凝らしている。
見慣れぬ表情。見慣れぬ声。
その美しさに湧き上がった嫉妬が胸を焼き、意図せず手の中で胡桃が、コリ、と硬い音をたてた。
その響きはごく小さいものだったが、大井夫人の耳を鋭く突き、口元の笑みは霧と散った。
なかば仕方なく不動堂の入口へ一歩踏み出した信虎に、大井夫人はゆっくりと頭を下げた。
夫の目の縁は赤く、酒を過ごしていることを大井夫人は悟った。
「……勝千代、次郎のところに参って、学んできたことなどを話してやるがよい」
このところ特に賢しき言動が増えた息子に父の風当たりは強い。
加えて今宵信虎は酔っている。
言葉を交わさせてはいけないと大井夫人は思った。
せっかくの美しい月夜に夫の罵声は聞きたくはない。
母親と月を眺めながら学問の話をしたかった勝千代は、至極不満だったが、母の心遣いは十分に理解できたので、
感情をぐっと飲み込み、父母それぞれに一礼して不動堂を出て行った。
信虎は息子の背中を睥睨したあと、視線を己の正室に向けた。
視線は微笑みの余韻を求めてさまよったが、白い美貌は静かな湖面のように凪いでおり、漣ほどの感情も浮かべてはいない。
しかしその水底深くに沈んでいる憂いだけは透けて見える。信虎はいらだった。
「また経など読んでおったのか。相変わらず抹香臭い女じゃ」
吐き出すように言うと、信虎は女を脅かすようにわざと音を立てて不動堂の戸を閉めた。
夫人は先刻信虎の興を削いだ側室の名を上げ、今宵はあちらにお泊りのはずでは? と尋ねた。
信虎が憮然と何も応えずにいるので、大井夫人はその顔の上に視線をさまよわせながら
「なにか、私に急なご用でも……?」
と静かな口調で言った。その言葉に信虎はじろりと女の顔をにらんだ。
「用がなければ、わしはお方様には拝謁できんのか。……お偉いことじゃ」
「また……そのような」
顔をそむけた大井夫人に近づき膝を折る。酒臭い息が大井夫人の頬にかかった。
「勝千代とはさぞ、お大切な話をしておったのじゃろうて。わしごときが邪魔をして悪かったのう」
丁寧な文言と揶揄する声音と不機嫌な表情とがバラバラで結びつかない台詞が、いつものように大井夫人の心を切り刻む。
「学問の進み具合などを尋ねておっただけにございます」
夫人は視線を流したが、信虎の節くれだった大きな手が白梅を大井夫人の手ごと掴んだ。
「勝千代め……小器用に浮かれた風流ばかり身につけおって……。そなた、武田の跡取りをそなたの父のごとく文弱な男に育てる気か」
細腕をひねりあげるように枝を目の前にかざし、信虎は吐き棄てるように言った。
「さようなことはございませぬ。勝千代は武家の棟梁となるに必要な修養を積んでおりまする。決して軽佻浮薄に風雅の道に遊んでいるわけでは……」
夫人の父大井信達は歌道の道に優れ、文人として知られている。父までも引き合いに出して息子を罵られて、夫人はつい反駁した。
夫人は、信虎の己への執着の深さゆえ、夫人が庇い立てすればするほど夫の嫉妬を煽ることをまだ気づいてはいない。
たちまち信虎の表情が険しくなった。
信虎は夫人の細い指を一本ずつ引き剥がして白梅を奪うと、高雅な花を憎々しげに一瞥してから床に打ち捨てた。
白い花びらが月光に舞い、梅の芳香が一瞬強く立ち上る。
息子が大切に守って自分の元へ届けた花弁が惨たらしく散るのを、大井夫人の瞳が追った。
抑えた表情にわずかに悲しみが滲んでいる。
信虎にはそれがたまらなく妖艶に見えた。
節だった大きな手が大井夫人の肩に伸びる。
「おやめくだされ」
低く抑えた声でつぶやき、夫人は夫の体を押し返した。
「御仏の御前にございまするぞ」
揉み合って、大井夫人の膝にあった経文がはじけ飛び、床の上でばらりとほどけて広がる。
「──ふん、そなたに委せておれば、勝千代君はさぞかしご立派な甲斐の守護様になられるであろうよ。少なくとも──仏の前でこのような罰当たりをせぬ男に育てるが良いわ」
信虎は手の中の胡桃を、夫人の襟元へねじ込んだ。
「お許しを……お相手ならば、寝所であい勤めまするゆえ……なにとぞ」
「何を今更。そなた、ここでわしに抱かれるのは初めてではあるまいが」
忌まわしい記憶に夫人の顔が歪む。
ゴツゴツした感触に夫人が見悶えた動きも手伝い、胡桃は上質で柔らかい絹地とそれに負けぬ滑らかさを持つ肌との間で、またたくまに紛れた。
「はて……どこに行ったのかのう」
信虎は白々しく言って、背後から女の体に手を這わせた。
大きく指を開き、豊かな乳房は特に念入りにまさぐり、ことさらに女の屈辱を煽る。
わざと胡桃のありそうな場所から遠回りし、ようやく帯の上に留まっていた固く丸いものを探り当てると、信虎はそれを幾重にも重なった女の着衣ごと掴み、女の感じやすい部分へ揉み込んだ。
一つは乳房に、もう一つは臍の周りに。
体を鈍い快楽が駆け巡ったが、大井夫人は歯をきつく食いしばり、意地になって声を漏らさなかった。
目を閉じ、心の中で経を唱えている。
乞うているのは身の救済か、罪深い夫への御仏の許しか。
それとも己を苦しめている憎い男の調伏か。
体と心が乖離し乱れていく中、次第に夫人にもわからなくなっていった。
しばらく胡桃で遊んだ後、信虎は夫人の打掛を剥ぎとった。
沈んだ色の錦は品がよく女には似合っているが、信虎の好みではない。
衣だけではない。この女は何一つ彼の好みには合わない。
はかなげな目鼻立ちも、控えめな物言いも、従順を装いながら己を曲げぬ気強さ、聡明さも。
美しい顔と体を持っていながらわざとのように地味に装い、万事出過ぎず空気のように振る舞っているくせに、家臣や他の側室までが彼女を慕うのも癇に触る。
これほど嗜虐心を煽る女を、信虎は他に知らない。
その堪える表情の美しさも、容易に声を出さぬ強情さも、実に踏みにじりがある。
なれば虐め抜いて、歪む顔を見て満足しておればよいものを、性の悪いことに、自分はこの女を愛おしく思っているのだ。
──恐らく、この世の他の誰よりも。
眉根を寄せ、苦しそうに歪んだ顔が灯明に浮かび上がり、信虎の心をきつく締め付けた。
先ほどの微笑んだ顔とは別人のようだ。
己の存在が愛しい女をこれほどまでに苦しめている。
──だからどうだというのだ。今更、この女に花でも贈れとでも言うのか。
夫人の歪んだ唇に、信虎は己の唇を寄せた。
先ほど息子に向けていたようなくつろいだ笑みは、自分に向けられたことがない。
(無理はあるまい)
信虎は自嘲した。
(……嫁してより、このような目にばかり遭わせられてはのう)
冷たい唇に軽く触れ、夫人の肌を求めて襟元を大きく開いた。
剥かれた白い肌はたちまち寒さに粟立ったが、容赦なく裾をたくし上げて太股までも冷気に晒すと、女の体を経巡った胡桃が零れ落ち、床にカタリと落ちた。
大井夫人の吐く息が白い。
信虎が己の衣服の裾をさばき、赤黒くそそり立った男根を掴み出す。
女を犯す寸前、信虎は妻が深く帰依する不動明王の坐像に挑むような視線を投げた。
炎を背負った恐ろしい顔の仏は、黙って半裸の男女を見下ろしている。
不動明王をにらみつけたまま、膨れ上がった先端をめり込ませると、大井夫人はようやく絶望的な喘ぎ声を漏らした。
(──目の前でそなたを信心する女が汚されておるのに、何もできぬか。)
跳ねる体を押さえつけて奥まで貫き、非道な快楽に身を浸しながら、信虎はふてぶてしく笑った。
(──わしからこの女を救えるならば、救うてみるがよい。)
不動明王をにらみつけたまま信虎は大井夫人の体を固く抱きしめた。
(離さぬ……)
ゆっくりと体を動かすと、寒さに粟立った女が、腕の中で次第に熱くほぐれて湿った。
つながっている部分が甘くとろける。それなのに、大井夫人の眉間にはまだ濃い苦悩の色がある。
その表情にたまらなく高ぶりながら、信虎の総身を貫く快楽には、砂を噛むようなざらついた痛みが混じっていた。
やがて灯明は消え月も沈んだ。
思いの通わぬ二つの白い吐息が、闇の中では一つに混じりあった。
おわり