今は剃髪して道鬼と号している山本勘助は、夜中雷の音で目覚めた。
轟音と激しい雨音に混じって、小さな足音がこちらへと近づいてくるのが聞こえる。
(やれやれ)
勘助が枕元の眼帯を拾い上げて結び終えたのと、寝所と次の間を隔てる襖が開いたのとはほぼ同時だった。
「旦那様……!」
開いた戸から橙色の塊が勘助めがけて突進してきた。
リツを抱きとめた勘助の背後、明り取りの障子を透かして稲光が光る。

──雷。
可愛らしい外見をしているくせに恐ろしく知恵が回り、なまじそのあたりのの武将などよりもよほど胆力のあるリツが、この世で恐れる唯一のものである。

養女となって始めての雷雨の夜、リツがこのように勘助の寝所に逃げ込んで来た時には、
勘助は、彼女が雷を口実に夜這いをかけてきたのでは、と疑った。
後日、実父の原美濃守にそれとなく探ったところ、この娘が幼い時より、
「雷だけには弱い」
というのはまことで、実家でも父の寝所に潜り込んでいたということを聞いた。
以後、この養女が雷が鳴る度に大騒ぎするのに、甘んじてつき合ってやっている次第である。

それが父親の役目というのならば仕方ないが、なにか納得いかないものを感じている勘助ではあった。

「これ、たかが雷ごときにそのようにおびえるでない」
「怖いものは仕方がないではありませぬか」
「が、いつまでも雷が怖いと父に甘えてどうする。子供ではあるまいに」
「されど、旦那様のほかにこの館に助けを求められる者などおりませぬ」
勘助の脳裏にこの家の他の住人──伝兵衛に太吉夫婦、茂吉らの顔が浮かんだ。
確かに、おくまはともかく、ほかの者にリツの取り乱した姿を見せたくはない。
勘助は溜め息をついた。
「だから常日頃早う婿を取れと申しておるのじゃ」
「それとこれとは別でござりまする!……きゃっ」
一際大きな雷鳴に勘助の胸にぐりぐりと顔を押し付けてきたリツの背中を、勘助は仕方なくさすってやった。


「……しかしあの鬼美濃殿の娘でありながら、雷が恐いとは面妖至極……」
勘助は武田家に仕官したばかりの頃、雄たけびを上げながら自分に向けて剣を振りかざした原美濃守の形相を思い出しながら言った。
「は? なにゆえでございますか」
「あのお方は見た目といいお声といい、まこと雷神のごときではないか」
リツが顔を上げ反駁する。
「何をおっしゃいますか。父上はところ構わず落ちて来てドシーン!!とかバリバリ!!などと恐ろし気な音でわたくしを脅かしたり、
 お宮の杉の木を真っ二つにしたりはいたしません!」
怖がっているわりには、身振り手振りを交えて熱弁するリツである。
「矢や刃なら防ぎようもありますが、どこに落ちるかわからぬものからは、逃れようがありませぬ。だからこそ恐ろしいのではありませんか」
「……それではわしの側におったところで詮無きことではないか?」
リツはブンブンと頭を振った。
「いいえ。一人でいるよりはずっとずっと心強うございます。それにアレは一人で居る女子を選んで落ちるものと聞いておりまする」
リツは雷、という言葉を口にするのもイヤなようである。
「アレは女子のへそが大好物なのだと乳母も申しておりました」
いったいこの娘は現実的なのか迷信深いのか……。その発言の矛盾を突こうと口を開けた勘助を、リツは潤んだ瞳で黙らせた。
「どうぞ、もうしばらくお側にいさせてくださいませ。後生でございます」

そんなやり取りを繰り返すうち、稲光と雷鳴との合間はどんどん短くなっている。
やがて一際鮮やかな閃光が部屋を白く染め、地震のように館が揺れた。
雷は近くに落ちたらしい。
「いやあ……っ!!」
リツが飛び上がって勘助の首にしがみついた。
「落ち着け、落ち着くのじゃ。取り乱すでない」
それはリツにではなく、むしろ自分へ向けた言葉だった。声が裏返ったのは雷のせいではない。

夏のことで夜着の布地は薄く、胸に押し付けられた乳房が、勘助の中枢に生々しい感覚を伝える。
出家し、齢五十を過ぎたとは言え、毎日鍛練を欠かさぬ勘助の体は頑健そのもので、そして十分にまだ「男」である。
心臓がばくばくと波打つ中、必死に養女をなだめる言葉を探す。
「案ずるな、わしがついておる!だから、もそっと離れよ、の?」
リツのしがみつく力はゆるまない。いったいこの細い体の一体どこにこのような力があるというのか。
恐怖のために速くなっている鼓動が、細かい身の震えがたまらなく愛おしい。
この愛おしさは父親の感情か。
恐らく──否である。
が、この娘を妻でなく養女にすることを決めたのは己だ。
そうしたことには様々な理由があったが、
若く美しい娘を、自分のような老いぼれの妻とするのはあまりに不憫。
リツにとってもよかれと思ってしたことだ。だから悔いてはいない。
この娘には、もっとほかに相応しい男がおる。己が由布姫様に捧げたように、この娘を真摯に愛し、
己よりもはるかに長く娘の側にいてやることのできる、若く強い男が。

しかし、その一方で思っているのだ。
この愛おしい娘を、誰にも触れさせたくない。

この腕の中にいる娘を守る役目を、近い将来ほかの男に委ねなければならぬと思うと、
勘助は身を焼かれる心地がした。
なんという欺瞞だ。
自分は、持ち込まれぬ縁談に鼻もひっかけないリツを叱咤しながら、実はそのたびに胸を撫で下ろしているのだ。

勘助は目を閉じた。
瞼の裏には、乱れた裾からこぼれ出したリツの脛が、雷光で白く焼き付いている。
リツの頬が勘助の首筋にぴたりと張り付く。その滑らかな感触に勘助は総毛立った。
乱れた息遣い、髪の匂い、わずかに震える温もり。その全てが勘助の理性を揺るがす。
勘助は腕の中に、リツの体と己の煩悩を、必死に封じ込めた。




「はああ……生きた心地が致しませなんだ」
リツがため息混じりに言った。
雷は去り闇が戻った寝所をぼんやりと常夜灯が照らしている。
雨はまだ降り続いているようだ。
すがりつくリツに押し切られて、褥に仰向けに倒れてしまっている勘助に、リツが覆いかぶさっている。
「……いつまでそうしておるか。早うどけ」
手を振って追い払おうとする勘助の首に、リツはくすくす笑いながら抱きついた。
「よいではありませぬか、もう少し甘えさせてくださいませ、旦・那・様」
「調子に乗るでない!」
勘助は体を起こしてリツを振り払い、乱れた襟元を正した。
生きた心地がしなかったのはこちらの方である。

リツの女体に掻き立てられた血の猛りは、いまだ鎮まらず、勘助の体のあちこちでくすぶっている。 父として接するのはもう限界なのかもしれぬ──。
今宵という今宵はそれを思い知らされた。

日々艶やかさ重ねていく娘に、いつか取り返しのない過ちを犯してしまう前に──

勘助は居ずまいを正した。
「──リツ」
「はい」
「一日も早く婿を取るのじゃ」
「またその話でございまするか──聞きとうございませぬ」
リツはぷいっと膨れて横を向いてしまった。
「聞け。わしはもう老いぼれじゃ。いつまでもそなたを守ってはやれぬのだ」
「──そうは思えませぬが?」
リツが勘助の体に意味ありげな視線を這わせた。
勘助はたじろいだ。己の欲望の気配を悟られていたのか。
不穏に騒ぐ鼓動を抑え、強いて父親らしい厳しい顔と声を作る。
「──よいから、何も言わずに、次にわしが連れてきた男を婿とするのじゃ。よいな。もうこれ以上先延ばしにすることは許さぬ」
勘助のただならぬ物言いに、リツの顔からすっと表情が消えた。


どれほど雨音を聞いただろうか。
リツは口を開いた。
「わかりました。おっしゃる通りにいたします」
虚ろな瞳はそのままに、リツは口元だけを動かしている。
自分で言い出したことだが、あまりのあっけなさに、勘助は少し拍子抜けした。

「……そ、そうか。うむ。よくぞ申した。では早速──」
「ただし」
望む答えを得た割には、力のない勘助の声を、リツの強い声が圧する。
「一つだけ条件がございます。──私を一夜だけ旦那様の妻にしてくださいませ」

一瞬その言葉の意味を理解できず、勘助はきょとんとした。
リツが手で己の顔を覆い、搾り出すように言う。

「この家に養女として参った時には、覚悟ができていたと思ったのです。旦那様の妻になれないのであれば、
 相手が誰であっても同じこと──ならば、旦那様がお選びになった方を夫として受け入れようと。
 ……されど、やはりイヤ。私は旦那様でないとイヤ」

馬鹿なことを申すな、と言うつもりだったが、勘助は声が出なかった。
リツの顔が苦しそうに歪む。
「だから、せめて一夜だけでよいのです。お情けをいただければ、私は誰とでも祝言を挙げてさしあげます。
 茂吉でも伝兵衛でも、誰であっても否やは申しませぬ。ただ一夜、旦那様が私を抱いてくだされば──」

リツが思いのたけを全てを吐き出し終わる寸前、灯火が急に激しく揺れた。
燃え尽きる寸前に一際大きく燃え上がった炎が、涙に濡れたリツの貌を照らし、消えた。

燈芯が尽き果てて真の闇に包まれた部屋を、再び雨の音が包んでいる。


「……愚かなことを申しました。お忘れくださいませ。道鬼様」
部屋に沈んでいた湿った空気がゆらりと動き、リツの足音が廊下を遠ざかっていくと、
勘助は、宙に浮かしたままリツに届かなかった腕を、はた、と褥に落とした。

「わしは……間違ってはおらぬ」
リツを妻ではなく娘とした己の選択を、誤りではないと思いながらも、
胸を押さえられるような苦しさに、勘助はその夜眠ることができなかった。


おわり

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